元気にしてます

音沙汰なく、ご心配をかけているかもしれませんが、元気にしてます。

近況としては、毎週水曜の外勤が、父が不在となったことで患者さんが私に来まして、多忙となっています。
外来が毎週40人越えしており、午前では終わらず昼過ぎまで飲まず食わず。
午後は1-2例ほどの手術が入っていますが、相棒の先生(相良先生)がとても手術が上手なので助かっています。

実は来月より、大学医局からの応援が増えます。医局長(田上先生)には本当に感謝です。
外来は現在の1診から2診になるので、私の負担も減ると思います。

研究に関しては、朝派で6:00-8:00をゴールデンタイムとしていたのですが、急に朝に起きれなくなりました。
知人曰く、アンコンシャスなストレスだろうと。私は知っているのですが、それは毎晩寝る前のYouTubeの見過ぎが原因です。
ゴールデンタイムを失って研究業務が溜まり、常に債務超過の精神状態で悪循環です。

さらに、今年はことごとく助成金が採択されません。
今まで科研費は常に取得してきており、一昨年は大学から基盤Bにするようにお達しがあったのですが、不採択だったため、
今回は基盤Cで申請したところ、Cでも不採択となってしまって、ショックです。
HR-pQCTの賞味期限切れかもしれません。新たな切り口、新たな分野への挑戦が必要そうです。

あと、どうでもいい近況としては、右小指がばね指となり、患者さんの気持ちがわかりました。注射もオペも嫌だ。

ということで、元気にしてます、はウソになりますが、まぁ、最近スイッチ入ってきたので、どうにかなると思っています。


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— posted by 千葉恒 at 08:58 am   commentComment [0] 

追悼 千葉剛次

一昨日、2022/2/18、父が他界しました。

私が知る限りの経歴を記載します。
 1942年(昭和17年) 長野県松本市で出生
 1945年( 2歳) 長崎市で被曝
 1949年( 6歳) 長崎市立西浦上小学校 入学
 1955年(12歳) 長崎大学教育学部附属中学校 入学
 1958年(15歳) 長崎西高等学校 入学
 1963年(20歳) 長崎大学 医学部 入学
 1969年(26歳) 長崎大学 医学部 卒業(昭和44年)
 1969年(26歳) 長崎大学 第二生理学教室 入局
 1978年(35歳) 長崎大学 第二生理学教室 講師
 1978年(35歳) 長崎大学 整形外科教室 入局(昭和53年)
 1979年(36歳) 大村市立病院 整形外科 医員
 1986年(43歳) 大村市立病院 整形外科 科長
 1992年(49歳) 大村市立病院 整形外科 部長
 1999年(56歳) 西諫早病院 整形外科 部長
 2022年(79歳) 胃癌肝転移により死去

父、千葉剛次は1942年8月に長野県松本市で生まれました。
憲兵だった祖父は松本市に数年間滞在しており、その後、長崎市に戻りました。

名前は、職場や論文などでは、ごうじ、としていますが、本当は、たけじ、です。
親類からは、たけじさん、たけちゃんと呼ばれていました。

2歳で長崎市家野町で屋内で原爆に被曝し、おそらく左上腕骨骨幹部骨折を受傷し、
原爆後の混乱の中、知らないご家族に数週間、面倒を見てもらいました。
憲兵だった祖父が白馬に乗っていたらしく、3歳の父がそれを口にしていたことで、奇跡的に祖父母の元へと戻りました。

また、幼少期に、重症の中耳炎を発症し、以後、慢性化し、難聴となりました。
さらに、重症の喘息もあり、高校では、出席が足りずに留年しており、大学も地元の長崎大学医学部を選びました。

もの作りが好きで、幼少期はライトプレーン、学生時代は、真空管を使ったアンプ作りなど、電気や工学に長けており、
医学部を卒業した後は、そのまま第二生理学の研究室に所属しました。

第二生理時代には、多くの診療科の先生方の研究や学位論文をサポートしておりましたが、10年間ほどした35歳に整形外科に転向しました。
おそらくは、天才肌の変わり者だった父は世渡りが上手ではなく、当時の常識であったかもしれないアカハラなどもあったと思います。

整形外科入局後は、長崎大学病院に1年間、その後は、大村市立病院に20年間ほど勤務していました。

父は大村市立病院で多くの術式や器械を開発してきましたが、その代表がTCVOLink という膝骨切り術です。
1989年に考案され、1992年の日整会誌で報告されました。当時47歳か、、私は今45歳なので、その年齢に近づいています。

1999年、56歳で、医局を退局し、実弟が経営していた西諫早病院に移りました。

2001年に私が整形外科医になりましたが、2005〜6年には大村市立病院に勤務したため、父の足跡を感じることができました。
2007年から長崎大学病院に勤務し、週に1回の外勤先は西諫早病院となり、以後、現在まで、父と毎週一緒に仕事をすることができました。
2007年から2022年まで15年間です。親子喧嘩しながら手術をしたこともあったし、なんだか不思議な方法で治療を成功させる父に感心したり。

父は栄誉なき天才で、教授、院長、学会理事のような肩書きもなく、そもそも肩書きには全く興味の無い人で、
「常識にとらわれず、自らの理論で解を導くこと」を、ごく自然に行っていました。

70歳後半ごろより多発原発癌を繰り返し、最初は前立腺癌、次は肝細胞癌、その次は胃癌、そして胃癌の肝転移。
治療には積極的で、手術は合計3回、化学療法も行い、いずれも術後合併症や薬剤副作用に苦しみながらも、
生きがいである仕事を続けていました。

79歳となった、昨年の2021年12月まで、現役の整形外科医を続けました。
年末より病状が悪化し、自宅介護も困難となり、2022年1月より西諫早病院の整形外科病棟に入院しました。

ナースコールも押せない状態でしたので、母が毎日毎晩付き添い、熊本の兄は毎週末帰省し、母と交代で付き添い、
4月16日に予定していた金婚式のお祝いを、父がまだ意識があるうちにと、2月6日に病室で家族4人+FaceTimeで嫁孫たちで行いました。
しあわせしあわせ、と手をたたく父が忘れられません。

2022年2月18日 早朝、家族と同僚ナースに見守られながら、79歳の人生を終えました。
当直医が別件対応中であり、5:10 心停止と瞳孔反射消失を私が確認し、臨終を母と兄に伝えました。

一昨日にお通夜、昨日に告別式と火葬を済ませ、今日は今から三日参りでお寺に行きます。

父との思い出は数多いですが、1つ挙げるとすれば、ライトプレーン作りでしょうか。
ゴム動力で飛ぶ木と紙でできた飛行機です。竹ひごをろうそくで曲げて、紙を湿らせてノリで貼って。
よく一緒に作っては公園に飛ばしに行っていました。風に乗ってどんどん遠くまで飛ぶ時は、最高の気分で笑い合いました。

— posted by 千葉恒 at 08:42 am   commentComment [0] 

Revision

Revisionがつらい〜! 
早速、弱音を解禁することにしました。僕は弱い。

私の論文が、JBMRに蹴られて、現在Boneに投稿中です。
投稿システムはどの雑誌も刻一刻と変化しますが、
BoneのRevisionの投稿期限が、昨年頃から、2ヶ月間から3週間に変わっています。

今回、指摘事項は22個だったので、多くはないのですが、
3週間だと、2週間でやっつけて、1週間で英文校正に出して再投稿になるので、けっこうドタバタで、

その間に職場やプライベートで何か大きなイベントがあると、かなり時間がない状態となります。
英文校正は必ず特急依頼となるので、値段も高くなるし。

来週の金曜が締切なので、精神的に追い込まれた日々を過ごしています。

ところで、最近Boneで困っていることがもう1つありまして、それはアクセプト後のTableの仕上げです。
Figureはこちらが投稿した絵をそのまま使用しますが、Tableは雑誌社が作り直します。

下図のTable2のように列幅を調整すればおさまる表が、Table3のように変な改行をしてくるのです。

アクセプト後は、ProofをWeb上でやるのですが、この時点ではまだWeb版なので、Tableのずれはわかりません。
Proof後にPDF版が完成して初めて気づくわけですが、Proofは1回までと決まっているので、どうしようもないです。

実はTable3は、もっとずれてたので、編集者に直接メールをして、特別に直してもらった後ですが、
それでも変な改行はいくつか残されたままだったのです。

しかも私が指摘してない、訂正しなくていいTable4は、無駄に横に広げられ、
意味不明に隙間のある表が作成されました。アホなのか?

ここで交渉をあきらめましたが、もっと交渉してよかったんですかね?
この問題の解決方法を知りたいです。表を作成する時点から、紙面サイズを意識するとか?



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— posted by 千葉恒 at 06:25 am   commentComment [0] 

強く生きる

父が小学校の運動場を、自転車で砂埃を上げながら爆走している。
私とK-ponが近づき、父を止め、私は父を抱え上げた。

そこで泣きながら目が覚めました。変な夢。。
父のキャラクターを知っている人には、理解できそうな情景ではありますが。

診療では思い通りにいかないことばかり。
常に大量の仕事を滞納し、締切に追われ、返事してないメールだらけ。
私はいつも弱音を吐いている。同僚にも家族にも。

父は決して弱音を吐かない人。
私も父のように強く生きなければならない。
病床の父を想ってそう誓ました。

— posted by 千葉恒 at 06:48 am   commentComment [0] 

あけまして

おめでとうございます。遅くなりましたが。

毎年恒例の、ほーふですが、

昨年の抱負は、「処理速度の見直し」と「楽しく仕事をする」でした。
仕事が遅い自分を見直そう、ってことでしたが、現在も見事に遅いままですね〜、、全然、変わってないです。
相変わらず多忙で、締切に追われ、楽しむ余裕もないですね。ご褒美の出張も、無いままです。

ブログで書くことでもないんですが、高齢の父Link が、徐々に弱っていて、
私の叔父は病院Link を経営していて、父はそこの現役の整形外科医なのですが、徐々に離脱していて、
毎週その病院に外勤に行っている私は、徐々に重くなっていってます。解決すべく良い方法を模索中です。

そして大学では、今年は、臨床と医局運営の業務が増えますが、これも解決すべく良い方法を模索中です。

そんな中、今年の抱負ですが、「夢のある研究テーマを掲げる」です。
その研究に参画できることで高揚感を味わえるような、今までよりも大きなテーマです。
私の人生もすでに折り返していて、30〜40年後には死んでるわけで、後悔のないような人生を。

そして1万年後には、地球にはひとっこ一人いないかも。
この世に渦巻く喜びや怒りが一切無くなって、無音になるなんて不思議です。植物が世界制覇していることでしょう。
私は何を言ってるんでしょうって感じですが、今年もよろしくお願いします。


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— posted by 千葉恒 at 07:41 am   commentComment [4] 

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