ボクのDXA

私たちがやっている健常人のコホート調査に(J-CaraT study)、私自身も参加しているのですが、
0、3、6、9、12年で、DXAやHR-pQCTの撮影がありまして、

先日、6年目の結果をもらったのですが、順調に、大腿骨骨密度が低下していました:

腰椎骨密度(L1-4)は、YAM(%) 106 → 103 → 103 と変化なく、
大腿骨骨密度(Total Hip)は、YAM(%) 91 → 85 → 84 と低下傾向です。

これはレファレンスカーブ(下図の青の帯)の動きとほぼ一致していまして、
健常集団では、腰椎骨密度は45歳まで保たれ、それ以降から低下し、大腿骨骨密度は30歳以降から低下します。

YAMは、最も骨量が多いYoung Adult(若年成人)のMean(平均値)を100%として、患者さんが何%かを示すものですが、
腰椎YAMは20〜44歳の集団の平均値を採用し、大腿骨YAMは20〜29歳の集団の平均値を採用しています。

ところで、「腰椎骨密度は45歳以降から低下し」と言いましたが、
私たちの研究では、「男性」では「腰椎骨密度は45歳以降もほとんど低下しない」という結果が出ています。
実はいくつかの他の研究グループからも、同様の結果が出ています。

よって「男性の骨粗鬆症は、大腿骨で評価する」必要があると考えています。

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— posted by 千葉恒 at 06:45 am   commentComment [0] 

新年度

新年度となりました。気分一新して仕事に取り組みたいと思います。

そして、コロナ禍2年が過ぎました。まさか未だに出張もままならない状況Link とは想像してませんでした。
今年の主な出張予定は下記ですが、

5月 日整会総会 @神戸 
6月 QMSKI @オランダ
6月 骨形態計測学会 @鳥取
7月 骨代謝学会 @岐阜
7月 CTサミット @千葉
8月 骨粗鬆症サマーセミナー @幕張
9月 骨粗鬆症学会 @大阪
9月 ASBMR @Austin

このうち、6月のオランダは難しそうですね。9月の米国は、、どうでしょうかね。
とりあえず、5〜7月の神戸、鳥取、岐阜までは、現地開催を想定して準備しようかと思います。


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— posted by 千葉恒 at 08:04 am   commentComment [2] 

抄録な季節

日本で骨の研究をしている人たちにとって、2〜4月は学会の抄録作成の季節なんです。

骨形態計測学会 7月 鳥取  演題締切 3月 https://site.convention.co.jp/42jsbm/Link
骨代謝学会   7月 岐阜  演題締切 3月 https://site2.convention.co.jp/40jsbmr/Link
骨粗鬆症学会  9月 大阪  演題締切 3月 https://site2.convention.co.jp/jos2022/Link
ASBMR    9月 Austin, TX 演題締切 5月 https://www.asbmr.org/asbmr-abstractsLink

論文書きは得意ではない方ですが、抄録書きは慣れています。
書き順は以下の通りです。

1)結論
調査と解析が終わると、自然と「結論」が出てきます。
結論は「メッセージ性のあるワンフレーズ」がいいのでしょうが、ない時は「結果の要約」でもよいです。

2)結果
結論を詳細に書いたものが「結果」です。

3)方法
結果を得るためにしたことが「方法」です。

4)目的
結論の反対語が目的です。
結論が「AにおいてBはCの影響をもたらした」なら、目的は「AにおけるBの影響を調査すること」です。

抄録書きは、とても単純作業です。
背景や考察をいろいろ調べて書く込む必要はありません。

もちろん、データの収集や解析が、苦労の本体部分です。
それが終われば、抄録は気軽に構えていいかと思います。

— posted by 千葉恒 at 08:28 am   commentComment [0] 

元気にしてます

音沙汰なく、ご心配をかけているかもしれませんが、元気にしてます。

近況としては、毎週水曜の外勤が、父が不在となったことで患者さんが私に来まして、多忙となっています。
外来が毎週40人越えしており、午前では終わらず昼過ぎまで飲まず食わず。
午後は1-2例ほどの手術が入っていますが、相棒の先生(相良先生)がとても手術が上手なので助かっています。

実は来月より、大学医局からの応援が増えます。医局長(田上先生)には本当に感謝です。
外来は現在の1診から2診になるので、私の負担も減ると思います。

研究に関しては、朝派で6:00-8:00をゴールデンタイムとしていたのですが、急に朝に起きれなくなりました。
知人曰く、アンコンシャスなストレスだろうと。私は知っているのですが、それは毎晩寝る前のYouTubeの見過ぎが原因です。
ゴールデンタイムを失って研究業務が溜まり、常に債務超過の精神状態で悪循環です。

さらに、今年はことごとく助成金が採択されません。
今まで科研費は常に取得してきており、一昨年は大学から基盤Bにするようにお達しがあったのですが、不採択だったため、
今回は基盤Cで申請したところ、Cでも不採択となってしまって、ショックです。
HR-pQCTの賞味期限切れかもしれません。新たな切り口、新たな分野への挑戦が必要そうです。

あと、どうでもいい近況としては、右小指がばね指となり、患者さんの気持ちがわかりました。注射もオペも嫌だ。

ということで、元気にしてます、はウソになりますが、まぁ、最近スイッチ入ってきたので、どうにかなると思っています。


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— posted by 千葉恒 at 08:58 am   commentComment [0] 

追悼 千葉剛次

一昨日、2022/2/18、父が他界しました。

私が知る限りの経歴を記載します。
 1942年(昭和17年) 長野県松本市で出生
 1945年( 2歳) 長崎市で被曝
 1949年( 6歳) 長崎市立西浦上小学校 入学
 1955年(12歳) 長崎大学教育学部附属中学校 入学
 1958年(15歳) 長崎西高等学校 入学
 1963年(20歳) 長崎大学 医学部 入学
 1969年(26歳) 長崎大学 医学部 卒業(昭和44年)
 1969年(26歳) 長崎大学 第二生理学教室 入局
 1978年(35歳) 長崎大学 第二生理学教室 講師
 1978年(35歳) 長崎大学 整形外科教室 入局(昭和53年)
 1979年(36歳) 大村市立病院 整形外科 医員
 1986年(43歳) 大村市立病院 整形外科 科長
 1992年(49歳) 大村市立病院 整形外科 部長
 1999年(56歳) 西諫早病院 整形外科 部長
 2022年(79歳) 胃癌肝転移により死去

父、千葉剛次は1942年8月に長野県松本市で生まれました。
憲兵だった祖父は松本市に数年間滞在しており、その後、長崎市に戻りました。

名前は、職場や論文などでは、ごうじ、としていますが、本当は、たけじ、です。
親類からは、たけじさん、たけちゃんと呼ばれていました。

2歳で長崎市家野町で屋内で原爆に被曝し、おそらく左上腕骨骨幹部骨折を受傷し、
原爆後の混乱の中、知らないご家族に数週間、面倒を見てもらいました。
憲兵だった祖父が白馬に乗っていたらしく、3歳の父がそれを口にしていたことで、奇跡的に祖父母の元へと戻りました。

また、幼少期に、重症の中耳炎を発症し、以後、慢性化し、難聴となりました。
さらに、重症の喘息もあり、高校では、出席が足りずに留年しており、大学も地元の長崎大学医学部を選びました。

もの作りが好きで、幼少期はライトプレーン、学生時代は、真空管を使ったアンプ作りなど、電気や工学に長けており、
医学部を卒業した後は、そのまま第二生理学の研究室に所属しました。

第二生理時代には、多くの診療科の先生方の研究や学位論文をサポートしておりましたが、10年間ほどした35歳に整形外科に転向しました。
おそらくは、天才肌の変わり者だった父は世渡りが上手ではなく、当時の常識であったかもしれないアカハラなどもあったと思います。

整形外科入局後は、長崎大学病院に1年間、その後は、大村市立病院に20年間ほど勤務していました。

父は大村市立病院で多くの術式や器械を開発してきましたが、その代表がTCVOLink という膝骨切り術です。
1989年に考案され、1992年の日整会誌で報告されました。当時47歳か、、私は今45歳なので、その年齢に近づいています。

1999年、56歳で、医局を退局し、実弟が経営していた西諫早病院に移りました。

2001年に私が整形外科医になりましたが、2005〜6年には大村市立病院に勤務したため、父の足跡を感じることができました。
2007年から長崎大学病院に勤務し、週に1回の外勤先は西諫早病院となり、以後、現在まで、父と毎週一緒に仕事をすることができました。
2007年から2022年まで15年間です。親子喧嘩しながら手術をしたこともあったし、なんだか不思議な方法で治療を成功させる父に感心したり。

父は栄誉なき天才で、教授、院長、学会理事のような肩書きもなく、そもそも肩書きには全く興味の無い人で、
「常識にとらわれず、自らの理論で解を導くこと」を、ごく自然に行っていました。

70歳後半ごろより多発原発癌を繰り返し、最初は前立腺癌、次は肝細胞癌、その次は胃癌、そして胃癌の肝転移。
治療には積極的で、手術は合計3回、化学療法も行い、いずれも術後合併症や薬剤副作用に苦しみながらも、
生きがいである仕事を続けていました。

79歳となった、昨年の2021年12月まで、現役の整形外科医を続けました。
年末より病状が悪化し、自宅介護も困難となり、2022年1月より西諫早病院の整形外科病棟に入院しました。

ナースコールも押せない状態でしたので、母が毎日毎晩付き添い、熊本の兄は毎週末帰省し、母と交代で付き添い、
4月16日に予定していた金婚式のお祝いを、父がまだ意識があるうちにと、2月6日に病室で家族4人+FaceTimeで嫁孫たちで行いました。
しあわせしあわせ、と手をたたく父が忘れられません。

2022年2月18日 早朝、家族と同僚ナースに見守られながら、79歳の人生を終えました。
当直医が別件対応中であり、5:10 心停止と瞳孔反射消失を私が確認し、臨終を母と兄に伝えました。

一昨日にお通夜、昨日に告別式と火葬を済ませ、今日は今から三日参りでお寺に行きます。

父との思い出は数多いですが、1つ挙げるとすれば、ライトプレーン作りでしょうか。
ゴム動力で飛ぶ木と紙でできた飛行機です。竹ひごをろうそくで曲げて、紙を湿らせてノリで貼って。
よく一緒に作っては公園に飛ばしに行っていました。風に乗ってどんどん遠くまで飛ぶ時は、最高の気分で笑い合いました。

— posted by 千葉恒 at 08:42 am   commentComment [0] 

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